FACILITIES INTRODUCTION 施設紹介

山岡鉄舟、決死の逃亡劇の舞台「望嶽亭」篇
~江戸城無血開城の立役者~

1867年の大政奉還、王政復古の大号令を経て、1868年には戊辰戦争が始まりました。将軍徳川慶喜は江戸に敗走し、幕府はついに「江戸無血開城」を決意します。その時に、官軍がひしめく駿府へ、事前交渉のために乗り込んだのが山岡鉄舟でした。徳川慶喜の命令を受け、進撃して来る新政府軍の中を突破して西郷に直談判したのです。西郷は、主君・慶喜への忠義を貫き、江戸市民の命を守るために、死を覚悟して敵陣に乗り込んできた鉄舟の行動に心を打たれました。鉄舟の主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証して、奇跡的な「江戸無血開城」への道が開かれます。鉄舟こそが、のちの西郷・勝会談のお膳立てをしたのです。

山岡鉄舟とは?

「幕末の三舟」の一人として知られる旧幕臣で、明治政府に仕え、のちに明治天皇の侍従を務めた。

山岡鉄舟(1836-1888)江戸生まれ。家が武芸を重んじる家だった事から、幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術を学び、武術に天賦の才能を発揮したとされています。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となり、幕臣として清河八郎とともに浪士組を結成しました。後に江戸無血開城の立役者となりますが、明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任します。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称された鉄舟は、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であったようです。

望嶽亭とは?

薩埵(さった)峠の東口のふもとにあり、その昔、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった所として知られています。

当時の望嶽亭(ぼうがくてい)藤屋の当主・松永七郎平は、3月7日夜、官軍に追われ、命からがら逃走していた鉄舟から事情を聴き、彼が背負う密命の重さを理解して、からくり屋敷のような茶亭の造りを活かして脱出に全面協力しました。望嶽亭には母屋から直接通じる蔵があり、蔵の床の隠し階段から浜辺に下りられたことから、鉄舟はこの経路で脱出し、漁師姿に変装して舟で海道一の大親分とうたわれた清水次郎長の元へ送り届けられたと伝えられています。現在、松永の子孫が管理する望嶽亭には、当時の蔵や隠し階段が残り、鉄舟が置き去りにしたとされる銃も展示されています。
※観覧の際には事前予約が必要です

寺から山城へ、そして神社として変遷を遂げてきた史跡価値 家康公も認めた要衝 久能山
~いにしえから戦国終期の歩みを追う~

久能山の歴史的価値観の変遷

生涯の三分の一を駿府で過ごした家康公が幼少だった頃、文献には残っていませんが、太原雪斎から受けた武将になるために必要な知識や技術の教育の中で、飛鳥時代から続く信仰の場所として久能寺の存在は知っていたとしても不思議ではありません。また、駿河国に侵攻した武田信玄が断崖絶壁に囲まれた険阻な山に久能城を築き、以降は軍事的防衛のため海路を活かした海上要塞として活用されて行きます。家康公の遺命によって埋葬され、朝廷から神号「東照大権現」が宣下され、神となります。かくして、駿府の地で邂逅を重ね、戦国時代終期に泰平の世の礎を築いた家康公が葬られた由緒ある東照宮を鎭座地として語る時、久能山は悠久の頃より要衝であり続けた歴史的価値から語られます。

眼下に駿河湾を見下ろし、東に伊豆半島、西に御前崎を一望する景色が雄大な久能山。南面の急崖は駿河湾に接っし、東西両面は深い峽谷、北方は垂直にそびえる岩と日本平の高い丘陵が行く手を阻み、山城として理想的な地形に久能城はありました。久能山東照宮は山城だったころの地形や曲輪を活かし、山門や本殿などが建築されています。

現在の久能山東照宮

平成の大改修で四百年前の創建時の鮮やかな色彩を取り戻した社殿群。権現造りの発祥となった御社殿は国宝に指定(2010年12月)されました。

久能山東照宮は「徳川家」の墓、日光東照宮は「徳川幕府」の墓。

日本全国にある「東照宮」で、久能山東照宮は最初で最古の神社。家康公は遺言により久能山東照宮に葬られ、一周忌を経て日光に勧請され、日光東照宮が創建されました。

講演会終了後、講師竹上氏の先導で、
久能山東照宮の建築物や由来もご紹介します!お楽しみに。

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坐漁荘で出会う、静岡ゆかりの偉人 最後の元老、西園寺公望

興津坐漁荘とは?

西園寺公望公が政治の最前線から身を引いた後、別荘として大正9(1920)年に旧東海道沿いに建てられました。
元来の建物は老朽化を受けて愛知県犬山市の明治村へ移築されましたが、跡地には、図面を基に忠実に再現した木造 2階建て京風数寄屋造りの風情ある建物が復元され、2004 年から一般公開されています。

政財界の重鎮が興津に通う理由があった!

最後の元老として、戦前の昭和天皇に意見を進言できる立場にいた西園寺公望。幕末にフランスに留学し、市民革命を学んだ西園寺は、民主的、市民政治におけるダイナミズムを体現します。生涯2度の内閣総理大臣を勤め、多くの政財界人とのネットワークを生かしながら、リベラルな姿勢を貫きました。その最適な場所として選んだのが興津であり、その地に築いた別邸が坐漁荘です。ここを拠点に、西園寺は積極的に活動しました。5・15事件、2・26事件が起こり、国が戦争へと傾斜する中で、より良い日本の歩む道を模索していく西園寺が、この興津から当時の政治を動かしていきました。興津を選んだいきさつや清見寺を含めたこの地域との関わり、その時代を紐解きます。

西園寺公望とは?

鎌倉時代から続く清華家の血を引き、皇室と関わりの深かった政治家

西園寺公望(1849-1940)
京都市生まれ。戊辰戦争にて倒幕側の総督として各戦場の指揮を執り、戦後は京都にて私塾・立命館を創立。その後、フランス留学を経て、東洋自由新聞の社長に就任しました。第二次、三次伊藤内閣で文部大臣。内閣総理大臣を二度務め、辞任後は天皇の側近にあたる元老に任命され、大正8年に坐漁荘を建設し、政治に関わり続けました。「天皇が直接政治に関与し過ぎると権威を低下させてしまいかねない」という信念があり、元老の人員拡大に反対する姿勢を貫き、自分の代で元老制度を終わらせて、日本政治の近代化を後押ししました。

講演会では史事を知るとともに、
坐漁荘のご紹介も行います

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